宣宗(せんそう)は金の第8代皇帝。、章宗の庶長兄に当たり、宣孝太子の顕宗・允恭の庶長子である。
祖父の世宗により升王、翼王、邢王に封じられ、後に豊王に昇格し、近衛軍である彰徳隊を率いて統轄した。しかし1213年、叔父である衛紹王が対モンゴル戦敗北の問責を恐れた将軍の胡沙虎によって殺害されると、その後継者として皇帝に擁立された。しかし胡沙虎も間もなく部下の朮虎高琪により殺害されたため、宣宗は胡沙虎の傀儡から脱することができた。
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1211年からモンゴル帝国による金朝境域への侵攻し、耶律留哥のように契丹王侯などこの地域の諸勢力や将軍たちが金朝を見限ってモンゴル帝国へ帰順する事態が多発し、金朝軍も敗北を重ねて、金の兵力は弱体化する一方であった。また、1210年前後から西方の西夏がモンゴル帝国の攻撃に対し、金朝側へ援助要請が出されたが、援軍は得られず、西夏はモンゴルと講和を結んでなんとか軍を撤退させた。
1213年末にチンギス・カンは旧金朝側の兵力も併せ、親征して第二回の金朝遠征を行った。ジョチ、チャガタイ、オゴデイらチンギスの諸子指揮下の右翼軍を太行山脈に沿って山西方面に侵攻させ、ジョチ・カサル指揮下の左翼軍は河北の沿岸地域に沿って制圧、チンギス自身は末子トルイとともに中軍を指揮して河北から山東方面まで侵攻して、これら河北、河東、山東の90余郡の諸都市はことごとく劫掠されたという。2月までの三ヶ月間に守備隊を備え陥落や破壊を免れた都市は、これら三地域のうち、大名府、真定府、青州、雲州(鄆州)、邳州、海州、沃州、順州、および通州の九つしかなかったという。
12月頃に一度モンゴル軍の一部隊によって囲まれたこともあったが、1214年4月にチンギスの親率軍が遂に金の都城である中都(現在の北京)に至り、完全に包囲される。チンギス・カン率いるモンゴル軍は全軍、中都の北郊外に布陣し、使者を送り宣宗以下金朝宮廷の不徳を難詰した。丞相となった朮虎高琪は、モンゴル軍に疫病や兵馬の疲弊があるので、中都から軍をもって打って出てこれを攻撃するよう説いた。しかし宰相で宗室でもあった完顔福興(『元朝秘史』に「王京丞相」としても表れる人物)は出撃して敗戦した場合、軍が離散して郷里に帰ってしまい都がモンゴル軍の兵火に晒される危険性を指摘したため宣宗はこの進言を採用した。宣宗は完顔福興の献策に従い、モンゴル帝国と講話を結んだが、この時、従妹の哈敦(ハトン)公主(または岐国公主。衛紹王の娘。モンゴル宮廷では「公主皇后」と呼ばれた)を童男女おのおの500人とともにチンギス・カンに降嫁させ、御馬3000頭、金銀珠玉など多数の持参金を持たせるなど、屈辱的な条件でモンゴルと和睦している。こうしてモンゴル軍は撤退した。
同年5月、チンギス・カンの再度の侵攻を恐れた宣宗は中都から開封に遷都する。中都には太子守忠を残し、丞相完顔福興を留守軍に命じた。しかし、中都が包囲されていた時の契丹人守備部隊の給付していた馬匹や甲冑を回収しようとした時、契丹人の指揮官らが拒んで叛乱を起こした。完顔福興はこれを鎮圧したが、この契丹人指揮官のひとりがチンギス・カンに使節を送って援助を懇願したため、チンギスは南方への遷都とこの叛乱の事情をモンゴルへの反抗と認識し、再度の金侵攻を命じた。
1215年に中都はモンゴル軍によって陥落、金は中国北部における領土の大半を失うことになった。
内政面では宣宗は軍事力の増強と国庫収入の好転を図って財政政策を推し進めたが失敗、国内にインフレが発生し経済的混乱が発生した。また王朝の弱体化を見て、それまで金に服属していた有力な漢人や契丹人の諸侯の自立も目立つことになった。
1223年に宣宗は還暦を過ぎて崩御した。